相棒と交わした固い約束も、このときばかりは守れなかった。専属キャディの前村直昭さんとの約束。「いつも笑顔で頑張らなあかん」。人生初のウィニングパットを決めて、その前村さんと歓喜の抱擁を交わし、迎えてくれたトレーナーの飯田光輝さんの胸になだれ込み、先輩プロの広田悟や、小田孔明にも固い握手で祝福されては、へらへらと笑っていられるのもここまでだった。
号泣していた。真っ赤に泣き腫らした目を、左の袖でゴシゴシとこすった。
「なかなか勝てなかったのでね。やっと恩返しが出来たと、そう思ったら、さすがにウルっと来ましたね」と、照れた。「やっと勝てた」と、藤本は言った。確かに、3試合前の「とおとうみ浜松オープン」では3日間、首位を走りながら最終ホールで破れた。しかし、それでも今季開幕戦でのツアーデビューから、たった5試合目の初Vは、99年のJGTO発足後としては最速Vのタイ記録だ。また、今大会の史上最年少V記録。さらにデータの残る1985年以降でいうなら、ルーキー年に日本タイトルを獲得した選手は史上初。
尊敬する先輩も振り切った。東北福祉大の4つ先輩が、一時は1打差まで追い上げてきた。「変なゴルフをしたら、勇太さんにつけ込まれる」。逆に気合いが入った。「勇太さんのおかげで、スイッチが入った」。まだ学生だった藤本が、ツアーに挑戦するたびに「うちの後輩をよろしくお願いします」と、他の先輩プロに頭を下げて回ってくれたのが池田だ。
「おかげでプロになっても、みなさん優しくして下さった。勇太さんは、本当に凄い先輩やと思います」。通算9勝の勝ち星だけではない。その生きざまにも敬服する恩人に、精一杯の好ゲームで応えた。
14番の第2打は、「160ヤードで、アゲンストの風。目の前の木は、ちょっと枝がかかる。センターでいい」と、言い聞かせても、体は勝手に反応していた。7番アイアンで「ピンめがけて、低く打ち出した」。手前2メートルのチャンスにつけた。ちょうどそのころ、前組の池田が、15番のティショットを隣の17番のラフに打ち込む大ピンチを迎えていた。バーディ、ボギーで再び池田を突き放した。しかし藤本も17番では、ティショットを左の斜面に打ち込んだ。1.5メートルのパーパットを残した。「外してボギーにはしたが、あそこで勝負をしていたから18番につながった」。
上平栄道が、2打差と迫ってプレーオフも覚悟した。最終18番。
上平が、バーディチャンスにつけた。藤本は、手前のラフに外した。「意地でもパーを取る」と強い信念で、カップをかすめる絶妙の寄せ。振り返ればこの日の1番ホールも90ヤードの第2打が、ピンを直撃する劇的幕開け。最初から最後まで、地元・茨城のゴルフファンを釘付けにした。1ミリも隙のないゴルフでビッグタイトルを引き寄せた。
「あのとき勝っていたら、今はない」と、言った。2週前の浜松で負けたのは悔しいが、「あのときも逃げる立場で、その経験が今日、生きた」。その実力に、誰もが一目置いたアマ時代。しかし「僕は学生のときから2位ばっかりで。日本タイトルも獲ってない」。だがアマチュア時代の万年2位も、「今日2位で終わるのと、学生の時に優勝してるの。どっちがいいかと言われれば、こっちのほうが価値がある。僕的にはOKかな」と、その天秤のかけ方が、いかにも藤本らしい。
アマチュア時代から、プロよりもプロらしかった。2008年の日本オープンや、数々のトーナメントでローアマにも「僕の目標はそこではない」と言い続けた。アマ時代から、プロの試合で勝つことにこだわった。「今年は2勝する」との目標を胸に、いよいよ自分もその世界に飛び込んだ。そんな藤本にはデビューから5戦目の初Vでも遅すぎた。「やっと勝てた」と、繰り返した。ようやくつかんだ初Vは、待ちわびた日本タイトル。ツアープレーヤー日本一の称号は、勝てなかった日々の埋め合わせをしてあまりある。
今月末に長崎で行われる日韓対抗戦の代表メンバーにキャプテン推薦で選抜されたのは、今大会の開幕直前。出場資格には該当せず、青木功のご指名にも「まだ1勝もしていない僕が、と肩身が狭かった」。しかも報道陣に、藤本の印象はと聞かれた青木は「プレーを見たことがないから分からない」と、平然と答えた。なおさら居心地が悪かったが、これで堂々と一員を名乗れる。
今大会の勝者には、優勝賞金3000万円のほかに、5年シードと8月の世界ゴルフ選手権「ブリヂストン招待」の出場権が贈られる。表彰式で、藤本にその招待状を手渡した青木が、満面の笑みで言った。「この4日間で、お前の名前は忘れない」。世界のアオキにも印象づけるのに成功した、22歳のあっぱれな勝ちっぷり。もうそれだけでも藤本には、価値ある1勝だった。