今季はファイナルQTランク9位の資格で参戦。初優勝はおろか、シード権すらまだ手にしたことがなかったプロ17年目の40歳は、いきなり手にしたツアープレーヤーNO.1の称号に戸惑うばかりだ。
「夢みたいな感じで実感が沸きません。ほんとうに、勝っちゃったのかという感じで」。
初優勝が、5年シードのメジャー戦。「なんだか未知の世界で。これで燃え尽きちゃいそうな気もして。今までどおりにやっていていいのか。これから考えなくちゃいけない」と、困惑した。優勝賞金は3000万円は、この17年間で稼いだ分を差し引いてもまだあまる。昨シーズンの獲得賞金0円のチャンピオンは、「でも、ほとんど税金ですかね?」と、妙に現実的な感想で笑わせた。ましてこの勝利には、世界ゴルフ選手権ブリヂストンインビテーショナルの出場権という“特典”までついてくる。「アメリカなんか考えにもなかったので。ほんとうに、僕が行くんですよね?」と、不安そうにつぶやいた。
無理もない。それはまさに、ふいに転がり込んできた。1打差2位で迎えた18番。グリーンに上がるなり、電光掲示のスコアボードが変わった。リーダーのI・J・ジャンが、17番でボギーを打ってタイで並んだ。それでもなぜか、プレー中はさしたる緊張もなくやれたという五十嵐は、難なく2メートルのパーパットを沈め、先に上がって最終組のプレーを待つ間のほうが「ドキドキして喉が沸いた」と、待機場所に選んだ18番グリーンサイドのアテスト場で、ガブガブと水を一気飲み。プレーオフを覚悟していた。しかし五十嵐の目の前で、ジャンはあっけなく崩れ去った。あがりの連続ボギーに勝負は決まった。「とても信じられない」。茫然とする本人に変わり、号泣したのが8つ上の次兄・修さんだった。
グリーンサイドでその瞬間を見届けた修さんは、天に向かって咆哮した。たちまち泣き崩れ、周囲の手に支えられ、涙声で何度も何度も繰り返した。「あいつはほんとうに優しいヤツなんですっ!!」。それゆえに、いっこうに芽が出ないのだと周囲に揶揄されたこともある。しかし修さんは信じた。「優しさの中にこそ力がある。あいつはいつか、絶対にやってくれる」。今大会こそ、そのときだという予感が修さんにはあったという。泣きじゃくりながら、修さんは言った。「今週は、なぜか胸騒ぎがしたんです。こんなこと、私の48年の人生で、初めてのことだったんです。弟の応援なんか、ほとんど来たことがなかったのに。今週はどういうわけか、なんとしても行かなければと思ったんです」。
埼玉県吉川市で営む幼稚園で、園長をつとめる修さんが無理に休みを取って会場にやってきたのは大会2日目の5日、金曜日だった。それから毎日、弟のプレーについて歩いた。そして最終日には弟に気づかれぬように、家族の遺影をキャディバッグにしのばせた。“三男坊”の成功を、誰よりも願い続けた母・不二子さんは、8年前に心不全で亡くなった。“末弟”の五十嵐にゴルフを教え、プロ入りを強く勧めた長兄の力(つとむ)さんが、癌でこの世を去ったのは5年前だ。プロゴルファーの息子が試合に出るとあらば、どこまでも応援にかけつけた父・次雄さんは、2年前から寝たきりで意識がない。
修さんが宍戸の森に、見えない力を連れてきた。どんなに予選落ちが続いても、また次の日にはけろりとして「優勝を狙ってくる」と言って、出かけていく弟。不遇のときも「体が続く限りはゴルフをやる。勝てるまでやる」と、頑固に夢を追い続ける“末っ子”が、五十嵐家の希望の光だった。バッグの中に修さんが、家族の写真を入れているとはつゆとも知らず大接戦を勝ち抜いて、悲願の初優勝を勝ち取った五十嵐にも思い当たる節がある。「そういえば、2番ホールで左に曲げたセカンドショットが、木に当たってフェアウェーに出てきた」。確かに母が兄が、そして病床の父が、そこにいた。「どんなときもにっこり笑っていたらいいことある。自分を信じて頑張りなさい」とは、亡き母の口癖だ。遺言を胸に、五十嵐が2009年度のツアープレーヤーの頂点に立った。